私は常々、「都心へは定期的に出ないといけない」と考えています。
輝きが無くなるというか、感覚が鈍る感じがあります。
基本は難波がテリトリーですが、梅田や阿倍野もまた異なるエネルギーを持っていることから、時々わざわざでかけます。
一時期郊外にいたことがありますが、輝きが無くなっていくのが自分でもわかりました。
都心に出ることの本質的な意味

刺激の少ない環境に長くいると、感覚のアンテナが次第に閉じ、情報の変化に対する感度が鈍ってしまうリスクがあります。
都心に出ることは、自分の中の「感度の物差し」が狂っていないかを確認する校正作業のような意味合いがあるのだと感じます。
ネットで調べて得られる情報は「すでに言語化されたトレンド」でしかありません。いうなれば、過去の情報です。
しかし都心の街中にあるのは、まだ誰も言語化していないリアルタイムの空気。
具体的には、人が無意識に選んでいるものがわかります。
服・バッグ・アクセサリー・スマホケース……
誰かに「流行ってるよ」と言われて買ったわけじゃなく、なんとなくかっこいいと思って選んだものの集積。それが本物のトレンドの震源地といえるでしょう。
欲望と自己表現の「解像度」
都心は、単に人が多いだけでなく「他者にどう見られたいか」という強いエネルギーが衝突する場所です。
〇〇が流行」と一括りにされますが、現場ではその「着こなしの角度」や「色の組み合わせ」など、解像度の高い情報が溢れています。
都心はそもそもエネルギーの総量が違う。人が多い場所には欲望・消費・自己表現が凝縮されていて、それを浴びることで感覚が調整・最適化されます。
郊外や田舎にずっといると、「普通の基準」がズレてきます。
ドンキにスウェットとサンダルで来るヤンキーなんて、まさにこれですよね。他者からどう見られようと別にいい…というのは、解像度が低い行動を見せつけられているに他なりません。
「非言語的共通認識」のキャッチアップ
例えばフォント一つ、色使い一つにしても、店頭POPや看板・パッケージに使われるデザイン言語は、その時代の「心地よさの文法」を反映していて、これはネット画像では質感・サイズ感が伝わってきません。
例えば、ゴナで作られたパッケージは1990年代を思い浮かべますが、これを言語化出来る人はそう多くありません。
「ゴナ=1990年」を説明は出来ないけど、過去の記憶から「なんとなく古い」と感じることが、大事なのです。
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